2019年11月3日、スパンブリー線を完乗しました。この不便で中途半端な路線について調べたくなり少しだけですがまとめてみました。
スパンブリー線の歴史
1906年にタイ鉄道局が策定した鉄道建設計画に、ナコンパトム~ウタイタニー~ターク線にスパンブリー線の原点となるものがあります。実際に建設が始まるのは戦後です。戦後の新線建設には軍事的な側面が強くなりました。ノンカイ方面はラオスとの交通路の改良を求めていたアメリカが資金面ばかりでなく車両の援助も行いました。一方、バンコク近郊に目を向けると東西を分断するかのように流れるチャオプラヤ川に阻まれ、鉄道は1本の橋だけで結ばれていました。それがラーマ6世橋です。この橋を戦時中に破壊されて苦い経験をもつタイ政府は新たな路線の計画を立てました。それがノンプラドゥック駅から北上し、スパンブリーを抜けてロップリーから北線へと接続するチャオプラヤ西岸ルートです。1954年に建設が始まり、途中のシーサムラーン駅付近?までの約49kmが完成していましたが財政不足に陥っていたタイ国内は国家経済開発委員会からの建設反対もあって工事は一時中断、放置されてました※2。
この辺りからモータリゼーションの波が押し寄せます。渋滞の根源となっていたバンコク市内鉄道を全面的に廃止しようというサリット首相の「美化」計画が打ち出されます。フアランポーン駅の廃止も盛り込まれていましたがタイ国鉄は東線の分断化問題や高架化などを提起し廃止は免れました。一方、路面電車については1960年代に廃止に追い込まれてしまいました。
当時、資金面で建設を中断していた鉄道路線の廃止も検討がなされました。1950年代に建設が始まっていた5つの路線(ブアヤイ線、スパンブリー線、タータコー線、スラタニー~ターヌン線、バンスー~クロンタン線)の中でブアヤイ線とスパンブリー線だけが生き残ることになりました。建設当初ブアヤイ線はノンカイ線のバイパスとして最重要路線でした。しかしサリット首相の時代には輸送面での重要度はすでに低くなっていましたが建設続行になりました。ここで問題なのがスパンブリー線です。沿線は米の生産地でしたが輸送はもっぱら運河によってなされていてまったく需要見込がありません。理由は定かではありませんが県庁所在地でもあったスパンブリーまで残り約27kmであることを知ったサリット首相の鶴の一声で建設再開が決まりました。苦肉にも鉄道廃止に積極的だったサリット氏によってスパンブリー線が生き残る形になり、1963年にノンプラドゥック~スパンブリーの76km※1が完成しました。スパンブリー線の延伸については当時の国家経済開発委員会や世界銀行の反対で実現せず今日に至っています。
スパンブリー線完成後、南部地域への米輸送も行われていたようです。1990年代まで混合輸送で貨物が運行されていました。特急の運行も一時行われていたようです※3。また1日2往復だった運行※2も現在は早朝上り、夕刻下りの1往復のみとなり旅行客の行く手を阻んでいます。
※1.参考文献 柿崎一郎「王国の鉄路 タイ鉄道の歴史」p251-p254
※2.参考文献 【第28回(第2部第10回)】盲腸線(上)サワンカローク線とスパンブリー線
※3.参考文献 「スパンブリー駅」(2018年7月7日 (土) 05:16 UTC) Wikipedia日本語版